求められる “役” を演じているだけ。ふたりの代表との関係性から見える菅原弘暁の素顔

PR Tableでサービスの核づくりを務め、ミッション変更や人事制度設計を先導し、2018年11月には『PR3.0カンファレンス』をプロデュース。変幻自在に仕事をこなす背景には、求められる役を察し、泥臭く動いてきた日々がありました。取締役・菅原弘暁をつくった、幼少期からのルーツに迫ります。

「ひょうきんに振る舞うこと」を覚えた子ども時代

▲子ども時代。神奈川県鎌倉市で生まれ育った

菅原弘暁(以下、菅原)の過去をさかのぼること、幼少期。3人兄弟の末っ子として生まれた菅原は、親戚のなかでも一番年下の存在でした。

菅原 「一番下の子ってちょっとワガママなくらいの方が、場が明るくなるじゃないですか。
たとえば、親戚のおばさんがグラタンをつくってくれたときに『もっと食べたい!』 って気を遣ったりね(笑)。兄貴からは『ワガママだぞ!気を遣え!』って言われたんですけど、分かってねぇなあと思って」

末っ子らしく振舞ってきた菅原少年。ひょうきんさは、この頃に身についていきました。菅原少年にとって、周りが求めることを察するのは、ごくごく自然なことだったのです。

菅原 「求められることをやるのに、全然苦痛を感じないタイプなんですよね」

小学生時代も楽しい日々を送っていました。早生まれゆえに、他の子に比べて体格の成長は遅れていましたが、中学校でバスケットボール部に入部後は、身長が180cmまでに成長。持ち前のひょうきんさで、深く悩むことも特にはありませんでした。

進学したのは、おもしろいことが何よりも正義の男子校。

菅原 「自己主張とか表現をしないと、淘汰されるんですよ。僕は主張の激しい方だと思うんですけど、それは淘汰されないための処世術で。弱肉強食の世界でしたね。おもしろいことが正義なんで、おもしろければ何をしても許される。いい意味で緊張感を持っていました」

菅原少年は、持ち前の空気を読む力を発揮して、器用に立ち回りながら過ごしていました。中学時代からの同級生であるPR Tableの代表取締役・大堀海(以下、海)は、こう言います。

海 「昔からひょうきんでしたね。やっぱり根っから明るいんです。 あとは、昔から不思議な美学があって、厳しかったですね(笑)。 物事をフワッとさせて話すと徹底的に詰められるんですよ。そういう彼の美学というか厳しいこだわりは、今では PR Table社のスタンスになっていますね」

どんな仕事も必死に自分のものにして、気づけば “特別待遇” に

▲オズマピーアール在籍当時、社内コンペで優勝したときの写真(左:菅原)

高校の成績は、体育と現代文と歴史以外、ほぼ学年ビリ。でしたが、友達と通う予備校が楽しくて、いつのまにか成績は急上昇し、明治大学へ進学します。

兄や姉の影響で小さい頃からませていて、舞台や映画、音楽に触れることが多かった菅原。なかでも映画が好きだったことから、映画製作の部活動に入部します。関心をもったのは、映画のおもしろさを考えることでした。

菅原 「たとえば、ほぼ同じようなシーンなのに、雰囲気を変えることで、時系列や主人公の心境を表現したり、ちゃんと科学があって。将来はきっと、映画関係の仕事をするんだろうと漠然と思っていました。
でも、就職活動を前にして、映画のことがどれくらい本当に好きなのか問われると『そこまででもねぇな』って。生粋のサラリーマンだった親父にそれを相談したら、そのうち出世欲とか出てきて会社員生活も楽しめるもんだよって言われて。それで就職活動を始めたんです」

その後、最初に受かった会社に、すぐ入社を決めました。サラリーマンであれば、社会人生活はとにかく楽しいはず。だからどこでも大丈夫。しかし、現実はそう甘くはありませんでした……。

菅原 「あんまりおもしろくなかったんです。 1年で辞めることにしました。まずはアルバイト先を探そうと思って、海に相談しにいったんですよね」

当時、海の兄でありPR Table共同代表の大堀航(以下、航)が働いていたのは、オズマピーアールというPR会社でした。

菅原 「何か良いアルバイトがないか海に相談をしたのに、航からオズマピーアールに誘われて(笑)。それで、第二新卒みたいな感じで、オズマピーアールに入社しました。
PR会社って新卒にとっては狭き門なんですよ。みんな PRやメディアのことをちゃんと勉強して入社しているし、やる気もある。でも僕はそこまででもなかったから最初はそんなに順調じゃなくて……」

遅れを取り戻したい。この会社で自分だけの武器を身につけたい。そう思った菅原は必死に働きます。

菅原 「とにかく電話に出まくっていましたね。先輩を電話に出させちゃいけないと思って。
自分よりも時給が高い人に難しい仕事をしてもらって、時給の低い人は誰でもできる仕事を率先して引き受けるべき。そう思って毎日必死でしたね。その結果、フロアにいる50人全員の内線番号を覚えちゃったんですよ。
あと先輩から 200~300件のメディアリストに『全部電話かけとけ』って言われて。普通はそんな真面目にやらないらしいんです。でも僕は無知だったから本当にやってしまって『本当にやるんだ(笑)』みたいな。
そうゆう仕事はメディアプロモートっていうんですけど、バカみたいに真面目にやるから “バカモート ”って言われましたね」

ひたむきに動いてきたことが評価され、楽しく刺激的な仕事がどんどん回ってくるように。あからさまな “特別待遇” を受けていました。当時一緒に働いていた航はこう言います。

航 「どんな辛い仕事をふっても、なんでも真面目に頑張ってやるんですよ。だから本当に頼りになる存在で……。いい後輩ができたなと思って、とにかく一緒にいましたね。
2018年の PR3.0カンファレンスも、僕ら兄弟は企画とか苦手なので、全部すがぴー(菅原の愛称)に任せてたから大変そうでしたが、最後は絶対にカタチにして、 100%やりきるところは当時から変わらないです」

そして、社内で信頼を積み重ねたのちに、転機となる仕事がめぐってきました。

当事者意識の限界ーー半年遅れてPR Tableに合流へ

▲2016年、イベント登壇での写真。当時はロン毛編集長と呼ばれていた

担当したのは、とある謝罪会見……。

菅原 「ひとつの巨大な事業が失くなって、それこそ職を失ってしまう人がいるのに、僕は当事者じゃなくてよかったなって思ってしまったんです。
PR会社である僕たちは結局のところ、当事者ではないんですよね。その差は、絶対埋められない。もちろん気持ちに寄り添ってお手伝いはしてますが、当事者じゃない分、気楽なもんだなと思っちゃったんです」

当事者意識をもたない方が楽しいという人もいる。お客様のお金で、好きなようにおもしろいアイデアを試すことに生きがいを感じる道だってある。だけど僕はそっちのタイプじゃない。そのとき菅原が感じたのは、“当事者意識の限界”でした。

菅原 「お金はお客さんのものだし、僕はお客さんへのコミットメントが強いタイプなんですけど、謝罪会見で “他人事 ”になっている自分に気づいちゃったんです。『代理店でよかった』って。ああ、これは当事者意識の限界だな、と。
それでも器用に “第三者 ”をやっていける自信はあったけど、別にそうはなりたいとは思えなくて。当事者になって、喜びも大変さももっと味わいたいと思ったんですよね」

その後、博報堂への出向。ここでも危機管理や、より「PRの本質」に近い環境下に身を置いたものの、“当事者意識の限界”は拭い切れず……。オズマピーアールを退職します。

ちょうどそのとき菅原は、航と海と一緒に住んでいました。「いつか」はPR Tableに合流するつもりで、その前にスタートアップを経験しようと、まずは別の事業会社への入社を選びます。

そして、菅原の抱いていた危機感は少しずつ鮮明なものになっていきました。PR業界の人は話題をつくることばかり考えていて、世の中のお金の流れや、お客様や従業員や株主などのステークホルダーのことを全然知らないのではないか。

事業会社の広報がきちんと誠実に自社のことを伝えられるようになれば、PR会社は本来なくてもいいのではないか。当時、PR業界の外の世界を、菅原に教えてくれたのは、一足先に事業会社で広報の経験を積んでいた航。

そして、「いつか」のタイミングは訪れましたーーPR Tableで初めてできあがった記事(ストーリー)を航から送ってもらった日のこと。

菅原 「めちゃめちゃつまらなくて。コンテンツの経験はないけど俺がやった方がいいものをつくれるよって。
PRに感じていた想いは同じだったし、とにかく商材を多くの人に伝えたかったので、編集長という役職は嫌だったけど、一緒にやろうと決めましたね。当時航は月 100本つくれますって勝手に周りに紹介していましたから(笑)」

PR Tableにとって、キャッシュを手にするためにコンテンツをつくっていく人がとにかく必要なときでした。ここを担わなければ会社が死んでしまうと思った菅原は、分かりやすい「編集長」という役を引き受けることにしたのです。

そして事業会社を退職。PR Tableに入社後4カ月間は、売上は立たず、無給で働く日々が続きました。

「こだわり過ぎじゃないか」と航や海から不思議がられるくらいに、大学時代の映画制作で培った感性を発揮して、厳しく進めていきます。

菅原 「うちはアーンドメディアじゃなくて、企業が直接読者に語りかける文体。そういう意味ではプレスリリースと一緒なんですよ。だから写真も “ろくろ回し ”じゃいけないし、メディアはそうだとしても、まったく在り方が違うんでって強く出てましたね。
一度でも役を引き受けてしまうと、自分でも不思議なぐらい、 “モード ”に入ってしまうんです(笑)」

そうして、サービス提供開始から2年間で500本以上の監修をし、今のPR Tableのコンテンツはできあがっていったのです。

求められている役を徹することを「強み」に切り開いてきた道

▲菅原がプロデュースした『PR3.0 カンファレンス』のオープニング(スクリーン中央が菅原)

1番年下だった幼少期、弱肉強食だった男子校、下っ端仕事を全うしたオズマピーアール時代、大量のコンテンツを監修したPR Table参画後、初の大規模カンファレンスをけん引した会社の勝負所。

振り返れば、求められる“役”を察し、明るく演じてきた日々がありました。それは、菅原の強みでもあります。そして、どう振る舞うべきか常に考えているからこそ、滅多なことでは弱音を吐かず、自分にも仲間にも、逃げることを許さない厳しい一面も……。

海 「 1度出したカードは引っ込めてくれないんですよ。それは誰に対しても変わらなくて、僕らにもめっちゃ厳しいですね」

ですが、オズマピーアール時代から菅原を長く見てきた、航は言います。

航 「社員にはあまり知られていないんですけど、みんながいないところでは、意外と泣き言を言うやつなんです。昔から大事な場面の前で、自信がなくなったりして。超厳しい反面、人間くさいところもあるのが彼なんです。


僕と海が会社の成長を考えすぎて、みんなを置き去りにしちゃうときも、すがぴーはしっかりメンバーの成長も見ていて。ミッションや評価制度とか変えたりしたんですけど、それもすがぴーの発想。いつもなんか言い出すんですよね。これやろうよ、って。じゃあやってよって投げると、なんとかカタチにしてくれます」


菅原 「大堀兄弟ふたりに苦手なことをやらせると、みんなの足を引っ張ったり、勝手に自信喪失しちゃうんですよね。それで、やる気をなくさせるのが一番嫌なんです。会社はもちろん、僕にとってもリスクですし(笑)。
そういうときに、『あ、今度はこの役が回ってきたんだな』ってなりますね。僕自身もそういうのが性に合ってるんだと思います」

菅原は、これからも“役”を演じつづけます。会社の成長とともに、役割が変わっていくのを、誰よりも心待ちにしながらーー。

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