麻薬の注射器と、子どもたちの笑顔。スラムの光景に受けた衝撃

▲シャンティ 広報・リレーションズ課 支援者リレーションチーム 吉田 圭助(よしだけいすけ)

吉田がタイ最大のスラム「クロントイ」に初めて足を踏み入れたのは、国際地域学部でコミュニティ開発を学んでいた大学3年生のとき、ゼミの先輩の調査に同行してのことでした。

クロントイ・スラムは、1930年代後半に始まったクロントイ港の建設や急速な工業化を背景に、干ばつや飢饉にあった地方の農民がバンコクに流れ込み、拡大していったスラムです。 現在は約10万人が暮らしているといわれ、不安定な居住、不衛生な住環境、子どもの教育や就職、麻薬など、いまだ多くの問題を抱えています。

吉田 「初めてクロントイ・スラムの路地を歩いたときは、驚きの連続でした。ベニヤ板やトタン、港からの廃材を使って建てた小さな家が所狭しと密集していて。人がすれ違うことも精一杯な細い路地、軒下の湿地に浮かぶごみや垂れ流しの洗濯の水、寝そべっている皮膚がただれた犬……。
その中でも一番衝撃を受けたことは、クロントイ・スラム内を走る貨物列車の線路際でした。その周辺を案内してもらったとき、その線路沿いに麻薬注入後といわれる注射器がゴロゴロ落ちていて。そんなことにはお構いなく、裸足の子どもたちが楽しそうに走り回って遊んでいたんです。
私たちは日本で暮らしていて、麻薬なんてそんな身近にあるものじゃない。それなのに、このスラムの純真な笑顔の子どもたちにとっては、注射器が落ちているのは当たり前のことなんだ、と驚きましたね。子どもたちが育つ環境がただただ衝撃的で、あの光景は今でも忘れられません」

大学を卒業した吉田は、世界と関わる仕事をしたいという想いで、グローバルに働くことを掲げていた一般企業に就職します。世界中に輸出される日本製品の説明書を、それぞれの言語で制作する会社でした。しかし、営業職だったということもあり、思い描いていたグローバルな仕事とは異なっていたのです。2年半勤務した吉田が退職を決意したのは、印刷を依頼していた中国の工場での労働環境を耳にしたことがきっかけでした。

吉田 「現在は変わっていると思いますが、当時中国の工場では、かなり厳しい労働環境で人々が働いていると聞きました。そのとき、違和感を覚えたんです。
自分は、大学でスラムに触れて、どうしたら貧困や格差をなくすことができるのかを考えてきたのに、厳しい状況にある人たちに仕事を依頼している……そんなことでいいのかな、と。
もちろん、企業が雇用機会を創出することは、大事なことです。でも、私がしたいと思っている『世界との関わり方』とは違っていました。そこで、貧困や格差の解決につながる関わり方を模索しようと、大学院に入ることに決めたんです」

スラムのNGOスタッフとして活動。そしてシャンティとの出会い

▲ドゥアン・プラティープ財団 教育里親事業部のスタッフ(当時)と吉田(前列左)

大学院に入学した吉田は、再びクロントイ・スラムへ。調査の中で出会ったのが、「ドゥアン・プラティープ財団」というタイのNGO団体です。

プラティープ財団は、クロントイ・スラム出身のプラティープ氏によって立ち上げられました。スラム内の子どもたちへの教育・奨学金支援、家庭内暴力など、困難を逃れた人たちのための寮施設の運営など、スラムの人々が自らスラムの課題に向き合い、活動している団体です。スタッフは基本的にタイ人で、日本の支援者が多いこともあり、日本人ボランティアが数名所属しています。

吉田 「タイの人たちが自らで運営する NGOという点に非常に興味があって、何度も足を運び話を聞かせてもらっていました。
そんなとき、プラティープ財団にいた日本人ボランティアの方が帰国することになり、その仕事を担う人を探しているというお話を伺ったんです。大学院の調査をする上でも、財団での活動は役に立ちますし、ボランティアスタッフとして関わらせていただくことになりました」

プラティープ財団では、教育里親事業部に所属し、日本の支援者の方々に、子どもからの御礼の手紙を送ったり、支援状況を知らせたりといった仕事に従事。財団の仕事にやりがいを感じてからは、大学院を中退し、本格的にタイで暮らしていくことを決意します。

プラティープ財団のボランティアスタッフとして働いていた吉田ですが、当時からシャンティはよく知った存在でした。というのも、プラティープ財団の事務所と当時シャンティのタイ事務所だったシーカー・アジア財団(2017年にシャンティの事業を引き継ぎ独立)は、約30mの距離にある「ご近所さん」だったのです。

今度はシーカー・アジア財団で日本人スタッフが退職することになり、吉田に声が掛かります。プラティープ氏からぜひ力になってあげてほしい、とすすめられたこともあり、プラティープ財団での3年間の勤務を経て、シーカー・アジア財団に入職することになったのです。

日本でスラムの現状などを“伝える”のが仕事

▲シャンティのイベント実施中。現地の子どもたちの様子をたくさんの方に伝えたいと思いながら

5年間シーカー・アジア財団に所属した吉田は、家庭の事情により日本への帰国を決め、2017年の11月からシャンティに入職しました。現在は、広報・リレーションズ課支援者リレーションチームにて、支援者に向けて報告や寄付協力を依頼したり、学校や組合などの団体から依頼を受けて講演を行ったり、図書館でワークショップを行ったりと多忙な日々を過ごしています。

吉田 「ありがたいことに、全国に支援者の皆様がいらっしゃるので、国内出張は非常に多いですね。最近は講演の依頼もたくさんいただいています。
先日は、愛知の中学校で全校生徒に向けての講演があったり、労働組合の勉強会で講演をしたり。講演に呼んでもらった出張に合わせて、周辺地域の支援者さんへのごあいさつに伺っています」

しかし、8年間タイで活動していた吉田にとって、日本で支援者に向けてアジアの現状を伝えていく仕事は、やりがいを感じるとともに、戸惑いや歯がゆさを覚えることも多くあるものでもありました。

吉田 「目の前にスラムがない状況で “伝える ”ということがこんなにも難しいとは思いませんでした。タイにいたころは、スラムを実際に案内して歩き、音や匂いなどを体感してもらうことで、理解してもらうことができました。
リアルではないアジアの子どもたちの状況を、どう伝えたら身近な問題として感じてもらえるのか……今も試行錯誤が続いていますし、永遠に答えが出ないのかもしれません」

「シャンティで、人生が変わった」背中を押す、スラム出身の少女の言葉

▲クロントイ・スラムの図書館で子どもたちと

日々試行錯誤しながらシャンティの活動を伝えている吉田には、忘れられない言葉があります。それは、タイのスラム出身でありながら、現在は外務省に勤務し外交官として活躍するオラタイ・プーブンラープ・グナシーランさんが、スラムの奨学生たちに語った言葉です。

吉田 「『スラム出身で、困難な環境で、嫌なことがたくさんあっても、逆境に負けずあきらめないでください。夢を持つこと、自分を信じること、感謝の気持ちを忘れないことが大切です。自分を信じてやり抜いてください』という子どもたちへの激励の言葉が、胸に響きました。
話を聞いていた奨学生の子たちの真剣なまなざしも、涙をためて聞いている保護者の方々の姿も忘れられません。奨学生たちは『自分もオラタイさんのようになれる』と思ったはずです。またオラタイさんは『本が、図書館が、自分を導いてくれた。今の私があるのは、日本の人たちの温かい気持ちによって建てられた図書館のおかげです。感謝しています』とも。
自分の仕事が、子どもたちの未来を開くことにつながっているのだと深く実感できた出来事でした」

シャンティの支援先の子どもたちが置かれている状況やその背景、どんな顔で、図書館で絵本を開いているのか、そういったことを日本のたくさんの人に知ってほしい、と吉田。もっと身近に自分ごととして捉えてもらえるように。オラタイさんの言葉を胸に、吉田の挑戦は続いていきます。